彼は一人で雨の町を歩いていた。ポリバケツからあふれ出したごみの腐敗臭が鼻を刺す。捨てられて間もないタバコから白い煙が立ち昇り、見上げた空には雲が立ち込めていた。雨が身にしみて寒い。まだ秋口のこの雨は、いずれ冬を運んでくる。冬はいろんなものを殺す。彼の友人も冬の雪の中に消えていった。彼は身にしみるこの雨に冬の到来を予測した。
 暖かな空気をまとった人々が行きかう。彼は隠れるように狭い路地へ入った。雨をしのぐ場所もない。彼はぐったりと建物にもたれかかり、座り込んでしまった。うつろになっていく意識の中で、彼は暖かなにおいを感じた。冷えた体を中から温めていくようなにおい。彼は力を振り絞るように立ち上がり、においの元を捜した。においは路地の奥に進むたびに濃くなった。徐々に寒さが引いていく。いや、寒さが引くというより麻痺してしまったといったほうがいいかもしれない。彼は刺すような雨が降っているのかさえわからなくなってきた。
 よろよろと歩くうちに、彼は雨にぬれていない小さな家にたどり着いた。ドアの隙間から匂いが漂ってきた。香辛料のような、けれどどこかぬくもりのあるにおい。彼は吸い込まれるようにドアの隙間からその家に足を踏み入れた。
 高い天井から真っ赤な布が垂れ下がり、風もないのに揺れていた。目の前の真っ赤な世界に目がくらみ、彼は思わずそこにしゃがみこんでしまった。目を閉じると徐々に力が抜けていく。不思議な感覚に逆らわず、彼はしばし夢を見た。
 明るい日差し、柔らかい芝生の上。彼は心浮き立つような気分だった。向こうには大好きな人がいる。笑い声が聞こえる。笑顔で自分を呼んでいる。兄弟たちが駆け寄ってきてじゃれあって、母親に寄り添って眠ったり、遊んだりを繰り返している。この上なく幸せな、暖かい夢を見ていた。それは彼が一番幸せだったころの夢。

 気がついたとき、彼は柔らかな布団の上にいた。太陽のにおいのする暖かい布団、いつの間にか乾いた体。そして目の前に置かれた食事。彼は食事に飛びついた。口をつけようとしたとき、彼は自分を見つめる存在に気がついた。見たこともない大きな鳥だった。真っ赤な部屋に映える白い鳥が、止まり木からじっと彼のほうを見つめていた。
「どうした、早くお食べ。腹がすいて仕方ないのだろう?」
彼は鳥に警戒しながら食事に口をつけた。口をつけた瞬間彼はわれも忘れて食べた。なかなか満腹にならないのか、彼は皿をなめるようにして平らげた。
「いい食べっぷりだ。食べさせがいのあるやつだな。」
白い鳥は笑うように細長いくちばしを鳴らせた。彼はようやく落ち着いて、もう一度鳥のほうを見た。
「・・・あなたは誰ですか。」
彼の問いかけに、鳥は大きく羽根を広げて体裁を整え、答えた。
「私は朱鷺という。この家の主だ。」
「あなたが、主?」
「そうだ、鳥が家を持つのが不思議か?」
彼は少しばつが悪そうに肩をすくめた。
「この家は何かを強く求める者にそれを与えるためにある。どうやら満たされたようだな。」
彼はそれまで自分が何を求めていたのかがよく判らなくなった。
「基本的な欲求ほど自覚が薄いものだ。お前は一番食事を求めていた。だから私はそれを与えた。その次に暖かい寝床を求めた。だからそうしてやわらかくて暖かい寝床を与えた。お前の願いはかなった。」
彼は朱鷺の言葉に耳を傾けながら、自分が何を求めていたのかを考えた。確かに自分はどこか暖かい場所と食事を求めていた。そしてそれが満たされた今、また何かを求めている。そのことに気づいて、彼は少し自分が恥ずかしくなってきた。
「一つの欲求が満たされれば次の欲求が出てくるのはごく自然のことだ。自分ではどうすることもできない欲求は誰かに解消してもらうしかない。それを今私がやってやった。だがその次に生まれてくる欲求は自分でかなえることのできる欲求だ。というよりも自分で行動しなければかなえられない欲求だろう。」
彼は朱鷺の言葉に納得して、小さくうなずいた。
「心は決まったな。ではもう少しそこで休むがいい。次に目覚めたときはきっと今の欲求をかなえることができるだろう。」
彼は朱鷺の言葉を聴き終えることなく眠りについた。体がぐったりと重く、そのまま死んだように眠った。

 目覚めたとき、彼は迷い込んだ路地裏にいた。雨は上がり、地面には大きな水溜りができていた。彼は立ち上がって大きく伸びをし、大きな水溜りを見つめた。これを飛び越えることができれば、きっとかなえられる。そう思って、彼は懇親の力を込めて水溜りを飛び越えた。体は軽く、弧を描くように水たまりを跳び越した。彼は水溜りを振り返ることなく、前を見つめた。耳をピンと立て、くるりと巻いた尾を振り、路地裏を出た。世界はまぶしいほどに明るかった。
「探そう。」
彼はそう心に決めて歩き出した。足取り軽く、まるでスキップするように彼は人々の行きかう通りを歩いた。



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