狭くて汚い路地の奥から甘い香りが漂ってきた。袋小路になった路地の突き当たりのあばら家には出入り口の扉に看板がかかっている。
乾ききった木の扉の前にヒトが倒れている。あばら家の扉が開き紅い垂れ幕がゆれると甘い香りが濃くなり辺りが満たされた。 垂れ幕の隙間にわずかに見える止まり木の主は不在。朱鷺は倒れた人のそばに降り立った。 朱鷺は人の肩を翼でなでた。
うつろな目をした人は朱鷺の姿を鈍く映した。朱鷺の姿を見てもなんら動じる気配はない。ぐったりと地面に身を寄せていた。
「どうしました。」
朱鷺は嘴をカタカタと鳴らせて人に問うた。
「疲れたのです、私は。」
人はわずかに唇を動かしてようやく聞き取れるようなか細い声で言った。
「このようなところで倒れていてはネズミたちが寄ってきますよ。」
「かまいません。放っておいてくれてかまいません。」
人は目を閉じて朱鷺を見るのをやめた。ネズミたちは臭いに集められて辺りをうろうろ忙しそうにうろついている。
朱鷺は甘い香りのする翼で人を覆い嘴でねずみを追った。人はネズミの声を聞いていた。
「放っておいてください。」
「あなたこそ私を放って置いてください。あなたのためにするのではありません、自分のためにするのです。」
しばらくの間ねずみの声だけが響いていた。人はわずかに開いた唇の隙間から声を漏らした。
「私は疲れた。疲れた。生きるのに疲れた。解き放たれたい。すべてのしがらみから解放されたい。」
「すべてから解放されるには体から解放されなければならない。」
人は目をつぶったまま朱鷺を見ずに言った。朱鷺も人を見ずに言った。
「家族も仕事も夫も妻も子供も社会も、果ては自分の名前すらも私を縛り付けます。私は私を縛り付けるすべてのものから解放されたいのです。」
「器を離れれば魂は解放されますよ。解放され何も感じなくなればいいではないですか。」
「それではだめなのです。私はまだこの人の世界に未練があるのです。家族も仕事も夫も妻も子供も社会も自分の名前も捨てたくはないのです。
何も感じない魂はこんなこと思わないかもしれませんが、きっとまた感じたいと思うような気がするのです。」
「一度も器を持ったことのない魂はきっとそうは思わないでしょう。けれど器を持ったことのある解放された魂は自由の中で少しずつ熟成されて浄化されて、浄化されきる前にふと立ち止まるのかもしれません。 人であったころを思い出して空虚な今の己を見るのかもしれません。そして再び戻りたいと思ったときまた器と結びつくのかもしれませんね。」
人は目をあけて再び朱鷺の姿を映した。怪しい光をたたえた目はどんよりとしている。
「そう、私はそれを知っているのです。知っているから踏みとどまっているのです。」
人は少し力づいたように言った。
「もとより器のないあなた。縛られているのは幻覚ですよ。」
朱鷺の言葉に人はむくりと起き上がり射す日の中に消えた。それを見送った朱鷺は横たわる人のためにねずみを追った。
そんなところへ人がやってきた。
「大変だ、人が倒れてる!!」
しばらくしてサイレンの音が響き渡ると人はすぐにどこかに運ばれていった。朱鷺は静かに見送った。

「人はいつでもない物ねだりだ。人として生きた魂は人としての癖を身につけてしまうのだろう。」
黒蜥蜴が朱鷺の足元にいた。朱鷺は踏まぬように気をつけてあばら家に戻っていった。
甘い香りが濃くなってあばら家は消えた。黒蜥蜴は光の中に消えた人を見上げた。
「空になった器を見つけては宿っているのか。」
人はまがまがしい光を放ちながらこの世をさすらっていた。



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